夏用のため、薄手の綿または麻製で全体的に軽い質感です。, アメリカ海軍の白詰襟軍服が「ドレスホワイト」です。 カラーは使用せず、インナーにはT シャツなどを着用します。, ※本記事は、ホビージャパン社の大人気書籍『軍服の描き方 仕組みからわかる世界の軍装・軍服』から一部を抜粋して特別掲載いたしました。. 背側の裾は下士官用と同じくセンターベントが設けられています。, 襟の内側にはカラー(プラスチック製)を取りつけます。 時代:時代:第2次世界大戦ごろ / 用途:勤務服, 日本の軍服(勤務服)は陸海軍とも装飾(バッジ類)が少ないシンプルな外観です。

_______________________________________________________________________________________________________ CONDITION This chromo is in very good condition with mild…, Beautifully detailed and coloured chromolithograph of asian and african orders. ハイウエストなベルト位置や、ベルト上に集中したボタン配置など、視覚的に胴短/脚長効果を生んでいます。 キャラクターを際立たせる格好いい「軍服」の特徴や描き方を徹底紹介します! 本記事は、発売より増刷を重ねる大人気書籍 『軍服の描き方 仕組みからわかる世界の軍装・軍服』(ホビージャパン)からの特別掲載です。, 軍服と言っても、国ごと、軍隊ごとに様式が異なっています。 この記事では明治維新後の建軍から解体(海軍省廃止は1945年(昭和20年))されるまでの旧日本海軍の軍人が着用した制服について解説する。 建軍当初は、イギリス海軍の軍服の影響も強かった。 軍服一般については軍服を参照。. イラストの人物は「参謀」職を示す「飾緒(しょくちょ)」と呼ばれるアイテムを右肩に取りつけています。, ウエストのくびれが少ない、ゆったりとした箱型シルエットとやや短い着丈が日本海軍制服の特徴です。, 腰に切り込みポケットがあり、5つの金ボタンは全て腰ポケットより高い位置。 アメリカ海軍の白詰襟制服は細身で絞りの入った縦長のシルエットが特徴です。, 着丈も長く、股下まで伸びたシルエットは、日本海軍の着丈の短い箱型シルエットと対照的です。 Type: Encyclopedia/Dictionary page, Book plate, Original lithograph print. しかし、それらの海軍部内での区別・呼称は必ずしも明確とは言えなかった。, 具体例を挙げれば、昭和9年(1933年)5月11日付の第三艦隊参謀長(在上海、旗艦出雲)発、海軍省軍務局長、海軍省経理局長宛の文書にも、既に第三艦隊漢口残留隊の服装に関して「第三種軍装(褐青色夏衣袴)」という呼称を見る事が出来、海軍部内では陸戦隊被服について、既に「第三種軍装」と呼称していた事が分かる[25]。, その9年後、連合艦隊司令長官山本五十六大将(当時)戦死時に、第一根拠地隊(在ブイン)軍医長の田淵義三郎軍医少佐が作成した『死体検案記録』では山本戦死時の服装を「第三種軍装」と呼称しており[26]、勅令[22]で第三種軍装として制定する1年4カ月前に、さらにそれより以前の勅令[27]で「略衣」が制定される7カ月前にも、海軍部内では陸戦服を「第三種軍装」と呼称していた事が分かる。, また、山本戦死時の連合艦隊参謀長宇垣纏中将もその戦中日記『戦藻録』において、事後の回想による記述とは言え、海軍甲事件当日の服装を「第三種軍装」と呼んでいる[28]。, 以上を要するに、勅令で略衣、第三種軍装が制定される以前には既に、海軍部内では陸戦服を「第三種軍装」と呼称していた事が分かる(但し、第一種軍装、第二種軍装と同様に儀式に於いても着用出来るようになったのは、昭和19年(1944年)の「臨時海軍第三種軍装令」制定からである[22])。, 在支海軍首脳陣。左右と中央3名は第3種軍装型着用、他2名は防暑服着用。階級章はいずれも第2種軍装型(1940年9月), 在サイパン中部太平洋方面艦隊兼第十四航空艦隊司令部職員。階級章は第1種軍装型(1944年), 明治20年の海軍服制では、准士官以上[14]について、夏略帽としてピスヘルメットが設けられていた。地質は白羅紗或いは白リンネルで、製式については「兜形」とされた。, 特務士官は、服制上、士官と区別があったが、昭和17年11月1日に服制上の区別が廃止される[29][30]。, 明治29年10月7日勅令第324号の服制では、准士官[注釈 2]の服装には、フロックコート型の正服・礼服・軍服、詰襟型の通常軍服(冬用の通常勤務服装。)・夏服(夏用の通常勤務服装。)などがあった。, 昭和17年(1942年)4月1日の改正により、第2種軍装用の肩章の金線の幅が、0.75センチメートル(改正前(ほぼ変更なし。)と改められた[17]。但し、これは改正前の2分5厘とほぼ差はなく、単に尺からメートル法に改められただけといいうる。, 下士(下士官)・卒(兵)の服制体系は、明治初期は非常に複雑なものであった。上級下士や技術系下士等は、比較的早期からセーラー服ではなく、フロックコート型・背広型・立襟型服制であった。ところが、技術系下士等を除く中下級下士は、卒と同様のセーラー服を着用していた。その後、順次中級・下級下士が立襟型に移行することとなった。, その後、明治6年11月14日改定の「海軍下士以下服制」[32]によると次のように定められていた。, 艦内教授役・掌砲上長・水夫上長・木工上長、掌砲長・水夫長・木工長などには、目庇つきのストレートタイプの帽が定められた。, 掌砲次長・水夫次長・指揮官端舟長・甲板長・按針長・信号長・帆縫長・造綱長・木工次長・火夫次長の礼服は、短ジャケット型上衣に、麦藁帽子型帽。常服には、セーラー服上下に、セーラー帽を着用した。階級章は左腕に着用した。, 当時は、下士でも系統毎によって細かい差異があった(当時の下士の階級自体については日本軍の階級参照)。, 1等下士[注釈 3]には、正服・略服・夏服・外套・雨衣が規定されていた。2等下士以下は略服の定めがなかった。, 1等下士並びに技工及び水雷工手は、正服・略服・夏服のどの服装にあっても、フロックコート型・背広型の制服を着用しており、後年の海軍下士の冬・夏の常装である詰襟型の制服は一切用いられていなかった。また、下士以下は原則として帯剣はないが、警吏は剣及び剣帯を着用した。, 明治20年勅令第43号当時の帽徽章(後の軍帽前章に相当)としては、1等下士では、金索環内に金の錨及び桜花が付された。1等兵曹の桜花は銀色、その他の1等下士は金色とされた。2等下士以下では、金索環内に金の錨のみ。, 1等兵曹・機技部下士1等[注釈 4]は、正服・夏服として、長ジャケット製胸二重折の上衣(いわゆるダブルの背広)を着用した。前釦は14個を2行に付した。これらの者は略服としては、その丈を短くしたもの(短ジャケット製。釦の数は変わらず。)を着用した。なお、勅令中に規定はないが、白地の飾りシャツを着て、立襟に黒襟紐(ネクタイ)を巡らした[34]。, 1等看護手・1等主厨は、正服・夏服として、長ジャケット製胸一重折の上衣(いわゆるシングルの背広)を着用した。前釦は4個。これらの者は略服としては、その丈を短くしたもの(短ジャケット製。釦の数は変わらず。)を着用した。, 1等艦内教授・1等警吏・1等筆記は、正服として、フロックコート製胸一重折の上衣(シングルのフロックコート)を着用した。前釦は4個。これらの者は夏服・略服としては、長ジャケット製胸一重折を着用した。前釦は4個。, 2等技工・2等水雷工手は、正服・夏服として、短ジャケット製胸二重折の上衣(いわゆるダブルの背広)を着用した。前釦は14個を2行に付した。略服の定めはなかった。, 2等艦内教授・2等警吏・軍医部の下士2等(2等看護手)・主計部の下士2等[注釈 5]は、正服・夏服として、短ジャケット製胸一重竪襟(いわゆる詰襟)の上衣を着用した(略服を欠く)。前釦は7個。これは明治29年改正でも存続した(もっとも、明治29年以前に艦内教授及び警吏は廃止され、また主厨は厨宰と改められている。)。, 3等技工・3等水雷工手・3等艦内教授・3等警吏・3等看護手・3等筆記・3等主厨も、同系統の2等下士と、正服上衣は同じ(略服を欠く)。, 他方、2等・3等兵曹、技工・3等水雷工手を除く機技部下士(機関手・船匠手・鍛冶手)は、卒と同じ服装(セーラー服)であった。, 明治26年12月27日に改正が行われた[12]。下士卒については形状の変化はなく、ただ呼称のみ変更された。, 明治29年10月6日勅令第324号による改正が行われた。1等下士の、儀礼用服装(「正服」)と通常勤務服装(「通常軍服」)の形状が大きく分離し、1等下士正服は背広型、1等下士通常軍服は立襟長ジャケット型に移行した。また、2等・3等看護手、同筆記、同厨宰及び卒の看護、主厨は、立襟短ジャケット型に移行した。, 下士卒についても、将校等に同じく、「正服」・「礼服」・「軍服」・「通常軍服」・「夏服」の分類が行われて、服制区分体系が統一された。, 2等・3等看護手、同筆記、同厨宰並びに看護及び主厨は次のような制服を着用した。なお、制帽は1等下士に同じであるが、帽章のみ金索環を欠き、錨と桜とされた。, 3等看護手・3等筆記・3等厨宰・看護・主厨はそれまで、フロックコート製胸一重折であったが、2等看護手等と同様の服制となった。, 2等・3等兵曹、同信号兵曹、同船匠手、同機関兵曹・同鍛冶手は水兵、信号兵、木工、機関兵及び鍛冶と同一の服制に属した。, 兵種及等級区別臂章(ひしょう)には、直径2寸で、それぞれの兵種にちなんだ意匠が用いられた。兵曹・1等水兵は錨、信号兵曹・1等信号兵は旗、船匠手・1等木工は斧、機関兵曹・1等機関兵は螺旋廻し(スパナ)、鍛冶手・1等鍛冶は鎚、看護手・1等看護は鑷子、筆記は筆、厨宰・1等主厨は鍵を用いた。, 兵種及等級区別臂章、外套臂章及び善行章は左臂に、掌砲兵章等は右臂に、それぞれ付した。, 1等・2等兵曹、同信号兵曹、同船匠手、同機関兵曹、同看護手、同筆記、同厨宰は長ジャケット製胸一重竪襟の制服を着用することとなった。これは「正服」・「礼服」・「軍服」・「通常軍服」・「夏服」で同形である。すなわち、従来の「通常軍服」に統一されたのである。, ここに、日本海軍下士の長ジャケット製胸二重折(ダブル背広型)の制服は姿を消し、専ら長ジャケット製胸一重竪襟(詰襟5つ釦)の制服に統一されることとなった。, 「正服」・「礼服」・「軍服」・「通常軍服」は全て同形である。地質は帽(紺羅紗)を除き、全て紺セルジ(サージ)である。, 上衣は、長ジャケット製胸一重竪襟で、左右下部に各1個の隠し(ポケット)を付す。鈕釦は5個1行。胴衣の鈕釦は5個1行。, 帽徽章は、金索環内に金の錨及び金の桜花が付された(明治20年勅令第43号当時の1等機関手・1等技工・1等船匠手・1等水雷工手・1等鍛冶手に同じ)。, それまで、3等看護手、同筆記及び同厨宰並びに看護及び主厨は短ジャケット製胸一重竪襟を着用し、水兵等は別箇の服装であったが、水兵等と同じ服制に移行した。, 3等兵曹、同信号兵曹、同船匠手、同機関兵曹、同看護手、同筆記及び同厨宰並びに水兵、信号兵、木工、機関兵、看護及び主厨はセーラー服を着用した。, 明治40年(1907年)10月1日に、3等下士も立襟長ジャケット型に移行し、軍楽科を除き下士は基本的に全て同様の服装となった(明治40年勅令第312号)。5つ釦である以外は、士官タイプにほぼ同じ。もっとも、縁取りや袖章がない。また、当初は礼衣・軍衣には胴衣の定めがあったが、後に廃止された。, 陸軍の軍帽の場合、士官用軍帽の耳ボタンは模様が入るが下士用軍帽には入らない。ところが、海軍の場合は下士用軍帽にも模様が入る。当初は鳩目については規定がなかったが、大正4年(1915年)11月5日以降は左右両側に鳩目各2個を付することとなった[15]。, 詰襟を着用する下士は麻襟(カラー)を用いた。これは上衣襟部分に汚れが付着しないようにするためのものである。, 臂章(ひしょう)とは腕(臂(ひじ))に付された官職区別等のための徽章のこと。礼衣には、赤絨の台地に金繍で、軍衣・外套には紺絨の台地に赤絨で、夏衣には白絨の台地に紺絨で表示される。, 明治43年7月1日に、下士卒臂章の下士外套章・下士事業服章が廃止された[35]。昭和5年に、特技章のうち、航空術章について改正が行われたほか、航空兵器術章が追加された[36]。また、1930年(昭和5年)12月1日に、礼衣又は礼装に用いる軍衣に付していた官職区別章等の金繍が廃止された[37]。, 普通善行章。台地が黒布なので昭和17年以降のもの。特別善行章の場合は中央に桜花が付される。, 1941年(昭和16年)12月8日に、太平洋戦争が勃発し、日本海軍は過去に例を見ない大規模な人員拡大等を必要とするに至った。このような時勢に鑑みて、特に官職区別章や特技章の製造を容易にして大量生産を可能とならしめ、また、識別が容易になるような改正が行われることとなった。1942年(昭和17年)4月1日に、下士官の臂章の形状が大幅に変更となった[17]。官職区別章は、礼衣には赤絨の台地、軍衣・夏衣・外套には黒布の台地に、黄織出で模様が描かれた。官職区別章は、従来丸形で複雑な模様により等級・兵の種類等を区別してきたが、新型官職区別章では、下向き5角形型になると共に、夏冬で共通化されるなど、大幅に単純化された。, 下士官の官職区別章は、下部に錨を配置し、その周囲に葉を配置し、その上部に横線1条ないし3条を配する形状である。なお、各科識別章(桜)は錨と横線との間に配置される。各科識別章は、兵科は黄、飛行科は青、整備科は緑、機関科・工作科は紫、軍楽科は藍、看護科は赤、主計科は白とされた。終戦まで基本的にこの形状であった。, この改正で、それまで分野ごとに細かく分かれていた特技章は、その分野を問わず共通化され、普通科の教程を卒業した者は桜花、特修科・専修科・高等科又は飛行練習生の教程を卒業した者は八重桜とされた。この特技章は左腕に付されたことから左マークと通称された。, 1942年(昭和17年)11月1日に、下士官軍帽前章が錨の上部に桜を付してその周囲を桜葉で囲う形状の真鍮プレス製に変更されて、士官用軍帽前章に比較的似るようになった[29]。もっとも、士官用軍帽と異なり、周章はなく、また前章に輪金もないなどの差異もあった。台座を除き縦は42mm(内、錨部分は21mm)、横は57mmとされた。旧型下士官軍帽前章に似た形状の前章は飛行予科練習生用の軍帽前章に用いられた。, 明治20年当時は、水兵・諸工夫・諸火夫(以上卒)のほか、2等・3等兵曹(以上兵科下士)・同機関手・同船匠手・同鍛冶手(以上機技部下士)も水兵等と同じ制服を着用した。, 服装の種別は「正服」・「略服」・「夏正服」・「夏略服」とされた。但し、明治26年(1893年)12月27日に「正服」が「軍服」、「夏正服」が「軍服」とそれぞれ改称された[12]。, 明治20年(1887年)の制定当時は「正服」と呼称したが、明治26年12月27日に「軍服」と改称された[12]。上衣及び袴は紺セルジで、帽は紺羅紗製とされた。, 上衣は、フロック製。襟及び袖先に金色の布を付した。袖先は開けるようになっており、黒色角製小鈕釦2個で留められた。裾は長めで、左右にベントが設けられた。ポケットはなかった。, 袴は、水兵服式(らっぱズボン)。右方に裏嚢1個を設け、前面の弁を黒色角製鈕釦にて閉じるものとされた。, 帽の形状は1等兵曹等に同じ。但し、眉庇を付さない。黒八丈織の帯を纏い、これに金箔で艦営名等を記する。また頤紐を付す。艦営名は左から右に書き、「大日本軍艦○○號」(號の字の七部分は土で、儿部分は巾)や「○○水兵屯営或○○所」とされた。, 「略服」上衣の製はフロックに類して、その丈は短く、袖先及び裾を割かない。ポケットはなかった。, 明治20年の制定当時は「夏正服」と呼称したが、明治26年12月27日に「夏軍服」と改称された[12]。, 上衣は、フロック製、白葛城織りにて製する。襟及び袖先に紺小倉織を付し、その襟及び袖先に幅3分の白色織組1条を付し、袖先に白色角製の小鈕釦2個を付す。, 「下着」(後年の「中着」に相当する。)も制定されていた。白綾織木綿で製した。襟及び袖に紺色布を付す。その製は「夏服」(勅令原文ママ)に同じである。, 明治29年の服制改訂により、従来「冬・夏」「正・略」の組み合わせで4種類に区別されていた、卒等の服装の種類が大幅に変更された。すなわち、明治26年12月27日に行われた士官の服装の種類の変更[12]に対応して、服装の種類の名称の統一を図ったものである。, という種類になったものの、下士卒の「正服」と「礼服」とは全く同じ。「軍服」もそれを若干簡略化したに過ぎないものとなった。, 明治29年(1896年)の服制では、水兵、信号兵、木工、機関兵及び鍛冶のほか2等・3等兵曹、同信号兵曹、同船匠手、同機関兵曹及び同鍛冶手も卒と同じ制服を着用した。, なお、明治37年(1904年)7月1日に、それまで卒と同じ制服を着用していた2等下士が1等下士と同じ服装となった[8]。, 上衣は、フロック製襟及び袖先に同質の布を付し、袖先に黒色角製小鈕釦2個を付した。旧「軍服」では、襟及び袖先に金色の布を付していたが、これを取り止め、簡素なものとなる。袴は、明治20年制式に同じ。, 「正服」などと同じであるが次の点が異なっていた。基本的に旧「略服」に同じであるが、左側胸部のポケットが追加された。, 明治40年以前は、旧「正服」上衣等(旧「礼服」・旧「軍服」は全く同製式。)と旧「通常軍服」で細部が異なっていたが、製式を基本的旧「通常軍服」に統一した。なお、明治43年当時は、二等卒以下には等級を識別する徽章はなかった[38]。, 軍帽は、所謂水兵帽型。前庇はなく、頤紐は黒色紐。軍帽前章として、鉢巻状にペンネントを巻き、艦営名等及び錨形を金で記した。, この艦営名等の金文字は、礼装用の場合は、金繍が用いられていたが、大正4年11月5日に、軍帽前章礼装用の金繍が廃止された[15]。, 1942年(昭和17年)11月1日に、金文字も金箔から黄織出に簡略化され、また戦時体制下で所属部隊名を秘匿する必要から、「軍海國帝本日大」(右から左へ書く)というペンネントのみ使用されるようになった[29]。, 1942年(昭和17年)4月1日に、兵の臂章の形状が大幅に変更となった[17]。官職区別章は、礼衣には赤絨の台地、軍衣・夏衣・外套には黒布の台地とされる。官職区別章は、従来丸形で複雑な模様により等級・兵の種類等を区別してきたが、新型官職区別章では、下向き5角形型になると共に単純化した。, 兵(4等兵には官職区別章はない)の官職区別章は、下部に錨を配置し、その上部に横線1条ないし3条を配する形状である。なお、各科識別章(桜)は錨と横線との間に配置される。各科識別章は、兵科は黄、飛行科は青、整備科は緑、機関科・工作科は紫、軍楽科は藍、看護科は赤、主計科は白とされた。, 襟飾りは、黒繻子の、正方形の布である。大正11年(1922年)5月1日に、襟飾が改正された[39]。, 明治40年勅令第312号の段階の礼服上衣・軍服上衣(後の軍衣に相当)の製式は「「フロック」製ニシテ左側ノ胸部ニ一箇ノ隠シヲ附ス」とされた。ここにいうフロックとは、フロックコート形上衣ではなく、セーラー服形上衣のことである。, 卒は、中着(当時の表記では「中著」。以下同じ。)を軍衣に用いた。夏衣には着用しなかった。中着はほぼ夏衣と同様の製式であり、白布で、襟部は紺布で周辺に白線1条が付された。また、中着とは別に中着襟も存在した。1922年(大正11年)5月1日に、中著襟が改正された[39]。, 明治40年勅令第312号の段階の夏服上衣の製式は、「軍服ニ同シ但シ襟ニ紺小倉織ヲ附シ其ノ邊縁ニ幅三分ノ白色○○○ヲ附ス又袖先及裾ニ紺小倉織ノ縁ヲ附ス」(○○○は判読困難文字)とされた。上衣の地質は白葛城織りであった。, 明治40年勅令第312号の段階では、夏服上衣の地質は白葛城織りであったが、夏服袴は上衣とは地質が異なり麻織りとされた。, 明治33年当時の事業服については次の通り規定されていた。地質は白木綿織等とされ、製式は基本的に2等兵曹以下の夏服と同様だが、襟布は紺小倉織ではなく胴体部分と同じ白木綿織で、袖先・裾の縁を付しない、比較的簡易な作りとされた。, 大正11年(1922年)5月1日に、事業服が改正された(大正11年勅令第226号)。, 折メスは、紐を襟にかけ、本体は上衣の隠し(ポケット)に収めるものとされた。大正11年(1922年)5月1日に、折メスが廃止された(大正11年勅令第226号)。, 少尉候補生の制服は、概ね、生徒の制服を基本にして袖章等を付した上で、制帽を士官に準じたものにしたものが用いられた。, 明治20年勅令第43号当時の少尉候補生の正服・常服・夏服は、短ジャケット形7つ釦。袖章は幅2分の金線1条の表面に環形を付す。少尉以上と異なり、常服・夏服であっても袖章は金線であった。正帽章は少尉以上(高さ1寸6分幅2寸)と異なり、高さ1寸、幅1寸5分とされた。明治23年(1890年)に、少尉候補生の剣及び剣帯を少尉と同じくする(明治23年勅令第70号)。, 大正9年4月1日に、候補生・生徒服制が全面改正される。礼衣は士官軍衣に基本的に同じ。軍衣・夏衣は、士官のそれに基本的に同じである。礼衣袖章は金線、軍衣袖章は黒線(大正9年勅令第19号)。, 昭和9年4月1日に候補生服制が全面改正され、短ジャケット形となる(昭和9年勅令第72号)。, 昭和16年勅令第1097号による改正(12月15日施行)で、候補生服制礼衣・礼袴・夏衣を甲種・乙種に分かつ(甲種は兵学校出身候補生等が、乙種は予備学生出身候補生等が用いた。)。, 海軍生徒の制服は何度も改正されたが、概観すると、短ジャケット(冬夏服とも7つボタン)、長ジャケット(冬服はホック留め、夏服はボタン留め。)、短ジャケット(冬服はホック留め、夏服はボタン留め)という変遷をたどった。短剣を帯びる制度は一貫して続いていた。, 後列の7つ釦が大正9年度改正より前の兵学校の制服。7つ釦の短ジャケット。明治6年の服制では、礼服は後ろ裾の長い燕尾型で常服は短ジャケット型であった。, 明治20年勅令第43号では、生徒は、将校科・機関科・軍医科・主計科に区分された。生徒の制服は、正服・略服・夏服の3種に分類され、それぞれは、上衣・胴衣・袴・帽・剣・剣帯によって構成されていた。, 正服上衣は紺羅紗。短ジャケット製胸一重。但し、頷章に金絹の錨を付する。鈕釦7個1行。将校科は袖章なし。機関科は幅1分紫線1条、軍医科は赤線、主計科は白線の袖章を付す。胴衣の鈕釦は上衣に同じ。, 略服(紺セルジ)の形状は正服に同じ。但し、頷章の錨を除く。夏服(白色葛城織)の製式は略服に同じ。海軍経理学校生徒は、他の学校の生徒と同じ服制であるが、袖章が白線(主計科の識別線の色)とされた[40]。, 1920年(大正9年)4月1日に候補生・生徒服制が全面改正された[41]。礼衣は士官軍衣に基本的に同じだが、袖章は金線。礼衣にのみ襟章が付される。軍衣は、士官軍衣に基本的に同じで、袖章は黒線。夏衣は、士官夏衣に基本的に同じである。, 大正10年5月1日に軍衣に襟章が付されることとなった[42]。襟章は打出し金色金属の錨で、礼衣のものには特に影線が付されていた。, 昭和9年4月1日からは、短ジャケット型に戻された。礼衣は、ホック留め。襟章の錨は礼衣では金繍、軍衣では打出し金属。夏衣は、7つ釦で、肩章が付された[43]。, 昭和17年11月1日に、新たに「陸戦事業服」が定められた[29]。上衣前面は当時の陸軍風に折襟5つボタンだが、背面はウェスト部分の絞りがある後の海軍第3種軍装風であった。またそれと共に着用する陸戦帽も定められた。, 昭和19年には、生徒の事業服が廃止された[44]。また、昭和19年12月発令の臨時特例で生徒の白い夏衣袴は褐青色に染め直された。昭和9年度以降の海軍生徒の制服は、第2次世界大戦後に発足した防衛大学校本科学生の制服に影響を与えた(紺色短ジャケットで釦なし)。, 明治37年勅令第185号により、海軍予備員は一般の海軍軍人と同様の制服を着用することとなったが、異なる点も存在した。帽前章、肩章、襟章では桜花の代わりに、予備員徽章を付した。これは海軍予備員の服制の特則が廃止されるまで変わらなかった。, 下士臂章については、当初は、桜花の代わりに、予備員徽章を付するものとされたが、昭和12年4月17日に臂章の上方に予備員徽章を付するものと改められた(昭和12年勅令第138号)。, 袖章については、明治37年勅令第185号では、相当官のものの2分の1とし、袖章の線端を環形としないとされていたが、大正8年6月20日、予備准士官以上の袖章が山形となる(大正8年勅令第269号)。, 肩章については、明治37年勅令第185号では、相当官のものの2分の1とされていた。, 予備員徽章は、明治37年勅令第185号では片仮名縦書きの「ヨヒ」(海軍ヨビ員のヨヒに由来する。)の円状のものであったが、大正8年6月20日にコンパスとなる(大正8年勅令第269号)。, このように、長らく一般の海軍軍人と服制上の区別のあった海軍予備員の服制であるが、昭和19年勅令第220号による改正(即日施行)によって、海軍予備員は官職階及び系統を同じくする者と同一の服制を用いるものとされた。, 昭和9年11月1日に、海軍航空予備学生の服制が施行される。礼衣及び礼袴を欠くが、軍帽前章、軍衣襟章、夏衣肩章及び外套肩章の錨の中央に予備員徽章を付するほか、海軍生徒と同一の服制とされる。但し、軍衣・軍袴・夏衣・夏袴の製式は各士官のものと同一とされる(昭和9年勅令第319号)。, 昭和12年4月17日に、予備生徒・予備練習生・予備補修生の服制が制定される。海軍予備生徒の海軍における教育期間中の服制は、礼衣及び礼袴を欠くが、軍帽前章、軍衣襟章、夏衣肩章及び外套肩章の錨の中央に予備員徽章を付するほか、海軍生徒と同一の服制とされる。海軍予備練習生の海軍における教育期間中の服制は、系統を同じくする海軍予備1等兵と同一のものとする。海軍予備補修生の服制は、右臂に予備員徽章(軍衣及び外套に付するものは赤絨、夏衣に付するものは紺絨。)を付するほか、系統を同じくする海軍4等兵と同一のものとする(昭和12年勅令第138号)。, 昭和16年12月15日に、海軍予備学生の服制が改正される。軍衣の袖章を山形とする(昭和16年勅令第1097号)。袖章の下端は袖から約2寸で、袖章の幅は2分5厘、環形の径は1寸2分5厘、識別線の幅は2分5厘。, 明治4年から1876年(明治9年)7月まで「海兵隊」が置かれていた。海兵士官及び兵員は、イギリス海兵隊と同様で、赤線入りのズボンに、剣帯及び肩襷は白革であった[45]。明治9年5月24日、海兵士官以下には、夏季常帽上覆巾を用いさせることとなった[46]。, 明治21年(1888年)に「海軍軍楽生礼服制定の件」(明治21年勅令第70号)が制定される。軍楽科に属する者には特別な服制が適用された。, 1942年(昭和17年)11月1日に、飛行予科練習生(いわゆる予科練)並びに飛行練習生たる下士官及び兵の特別の服制が定められた[29]。, それまで飛行予科練習生は昇進こそ早いものの、兵の階級を指定されている間は通常の水兵服が指定されていたため、人気は高くなかった。そこで、軍楽兵と同様の短ジャケット7つボタンに下士官型軍帽を制定し、人気を高めようとしたものである。, 予科練のように若年者を下士官の飛行要員として育成する制度は、海上自衛隊と航空自衛隊に航空学生として残っており、海上自衛隊では予科練と同じ詰襟の制服を着用する(詳細は制服 (自衛隊)参照)。, ここにいう准将校とは、機技総監・機関大監・機関少監・大機関士・少機関士・少機関士候補生・大技監・少技監・大技士・少技士・少技士候補生・軍医総監・軍医大監・軍医少監・大軍医・少軍医・少軍医候補生・薬剤監・大薬剤官・少薬剤官・主計総監・主計大監・主計少監・大主計・少主計・少主計候補生が該当した。, 明治29年当時は、准士官として、上等兵曹、船匠師、上等機関兵曹、看護師及び上等筆記が置かれていた。, 当時の1等下士は、1等兵曹・1等機関手・1等技工・1等船匠手・1等水雷工手・1等鍛冶手・1等看護手・1等主厨・1等艦内教授・1等警吏・1等筆記。, 当時の機技部下士1等は、1等機関手・1等技工・1等船匠手・1等水雷工手・1等鍛冶手。, 蜷川親正著 『山本五十六の最期 検死官カルテに見る戦死の周辺』 平成23年 光人社刊, 昭和9年5月11日 第三艦隊第33号ノ7 第三艦隊参謀長『漢口残留隊員被服物品交換期限ニ関スル件照会』, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=軍服_(大日本帝国海軍)&oldid=76452709, 兵科将校(現役・予備役)および特務士官、予備士官(昭和17年の大改正後)の階級章(襟章)であるが将官、佐官のデザインが正しくない。, 昭和18年勅令第910号による、海軍文官従軍服制及び「海軍監獄長、海軍監獄看守長、海軍監獄看守及海軍警査服制」の改正(即日施行)。.

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