1342年にリッチモンド伯に叙爵。1359年、初代ランカスター公ヘンリー・オブ・グロスモントの次女ブランシュと結婚し、ランカスター公となった。結婚によりダービー伯領・リンカーン伯領・レスター伯領も手に入れ富裕になった。ゴーントとは、出生地であるフランドル(現在のベルギー北部)の都市ヘントを指す。 1369年から再開した百年戦争において多くの戦いに参加、1371年にイングランド軍を率いていた長兄のエドワ… また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - ジョン・オブ・ゴーントの用語解説 - [生]1340.3. フランドル,ヘント[没]1399.2.3. のちのヘンリ4世、ヘンリ・ボリングブロクは1367年4月3日、エドワード3世の第四男ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの子として生まれた。 1707年グレート・ブリテン連合王国成立に至るスコットランド・イングランド対立の歴史. ジョン・オブ・ゴーント(John of Gaunt, 1340年3月6日 - 1399年2月3日)は、イングランドの王族。イングランド王エドワード3世とフィリッパ・オブ・エノーの第4子で三男。ランカスター家の祖で、ランカスター朝創始者ヘンリー4世の ジョン・オブ・ランカスター 家族 1423年にトロワでブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)の娘でフィリップ3世(善良公)の妹アンヌと結婚した[9]。1432年にアンヌと死別後、翌1433年にサン=ポル伯ピ … 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報, イギリス王エドワード3世の四男。ランカスター公。彼の息子ヘンリー4世に始まるランカスター朝の祖。フランドルのヘントGentで生まれたのでこの名がある。長兄エドワード(黒太子)とともに百年戦争で武名を高め、ついでカスティーリャ王国の内紛に介入するなど大陸各地に転戦した。帰国後エドワード3世は老衰し、黒太子も病床についたため、ひとり権勢を強める形となった。しかし、黒太子が死ぬとその子リチャード2世が王位を継承した(1377)ので、ジョンは反国王派と目され、不遇のうちに晩年を過ごした。一時はふたたびスペインに出兵し、またアキテーヌ公に封じられる機会に恵まれたものの、勢力挽回(ばんかい)はならず、失意のまま没した。, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - ジョン・オブ・ゴーントの用語解説 - [生]1340.3.

ジョン・オブ・ゴーント(John of Gaunt, 1340年3月6日 - 1399年2月3日)は、イングランドの王族。イングランド王エドワード3世とフィリッパ・オブ・エノーの成人へ達した3番目の息子。ランカスター家の祖で、ランカスター朝創始者ヘンリー4世の父。エドワード黒太子、クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープは兄、ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリー、グロスター公トマス・オブ・ウッドストックは弟。イングランド宗教改革の先駆者ジョン・ウィクリフの保護者として知られる。, 1342年にリッチモンド伯に叙爵。1359年、初代ランカスター公ヘンリー・オブ・グロスモントの次女ブランシュと結婚し、ランカスター公となった。結婚によりダービー伯領・リンカーン伯領・レスター伯領も手に入れ富裕になった。ゴーントとは、出生地であるフランドル(現在のベルギー北部)の都市ヘントを指す[1][2]。, 1369年から再開した百年戦争において多くの戦いに参加、1371年にイングランド軍を率いていた長兄のエドワード黒太子が病気でフランスからイングランドへ帰国すると指揮を引き継いだが、さほどの戦果は挙げられず1374年に帰国した。国内では老いた父エドワード3世に代わって国政を取り仕切ったが兄と対立、1376年4月の善良議会で専制ぶりを非難され、課税撤回と宮廷腐敗をもたらした大臣達の議会弾劾、父の愛人アリス・ペラーズの追放などを議会で決められた。しかし、同年6月に議会の後ろ盾だった兄が病死すると巻き返しに出て、翌1377年の議会で決議を全て無効にして実権を取り戻した[1][3]。, 同年に父も亡くなり甥のリチャード2世が即位すると、補佐として置かれた評議会の筆頭として実権を振るったが、1381年に課税の失策によりワット・タイラーの乱を誘発させた。ランカスター公はスコットランドへ外交活動をしていたため不在だったが、ロンドンの邸宅・サヴォイ宮は反乱軍に破壊され、反乱鎮圧後の1383年にリチャード2世が親政を開始すると権力から遠ざけられた。リチャード2世に後継ぎが生まれなかったため、王位継承を目指してイングランドでもフランスのような男系継承のみを認めるサリカ法を採用することを主張したが入れられず、リチャード2世はランカスター公の兄であるクラレンス公ライオネル・オブ・アントワープの女系の孫であるマーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名した(ロジャーは1398年に死去)[1][4]。, 1386年からイベリア半島に遠征し、後妻の権利としてカスティーリャ王位を主張したが果たせず、王位要求を放棄する代わりに娘キャサリンとカスティーリャ王子エンリケ(後のエンリケ3世)を結婚、10万ポンドの金や年金受け取りで妥協して1389年に帰国し、留守中に生じたリチャード2世と訴追派貴族の対立および非情議会で生じた亀裂の修復に努め、貴族の国王追及を止める代わりに国王の専制も抑えることに尽力した。その甲斐あってリチャード2世からの信頼を獲得、1390年にアキテーヌ公位を譲られた(実効支配せず)。更に1397年、リチャード2世から4人の庶子を嫡子に格上げする計らいもあり(後述)、晩年はリチャード2世寄りの姿勢を取っていた。, しかし同年、リチャード2世はランカスター公の弟で訴追派貴族のメンバーでもあるグロスター公トマス・オブ・ウッドストックらを逮捕して殺し、ランカスター公の死の前年の1398年、彼の息子で同じく訴追派貴族の一員だったヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)を国外追放した。さらに1399年にランカスター公の死を見届けるとランカスター公領の没収を命じた[1][5]。, ボリングブルックは帰国して反乱を起こすとリチャード2世を捕らえて廃位し、ヘンリー4世として即位した。, 詩人チョーサーの『公爵夫人の書』(The Book of the Duchess)において「白の貴婦人」と賞賛されたブランシュ(1345年/1347年 - 1368年)との間に7人の子を儲けたが、成人したのは1男2女だった[6]。, ブランシュの死後、1371年に2度目の妃としてカスティーリャ王ペドロ1世の娘コンスタンス(1354年 - 1394年)を迎え、1男1女を儲けた[7]。, 1394年にコンスタンスを失うと、1396年に10年来の愛人キャサリン・スウィンフォード(1350年 - 1403年)を正式に3度目の夫人にした。彼女はランカスター公の母フィリッパが嫁ぐ際に随行してきた騎士の子孫で、愛人であった間に3男1女が生まれていた。正式に結婚した翌年の1397年に、4人の庶子は嫡出子になることが認められたが、その条件として王位継承権を剥奪された。さらに1407年にはヘンリー4世によっても王位継承から除外することを確認された。それにもかかわらず彼らはボーフォート家としてランカスター朝で繁栄し、子孫はヘンリー7世としてテューダー朝を創始することになった[8]。, ヘンリー4世、キャサリン・スウィンフォードとの間の長子ジョン、末子ジョウン、その姪に当たる同名の孫娘、さらにその姪に当たる曾孫マーガレットを通じて、ジョン・オブ・ゴーントはヘンリー4世以降の全てのイングランド君主とジェームズ2世[9]以降の全てのスコットランド君主の共通の先祖である。, 森、P155、青山、P375 - P376、川北、P101 - P103、P105 - P106、松村、P291。, 森、P160 - P164、P176、青山、P378 - P379、P401、川北、P106、松村、P291、ロイル、P33、P40 - P41。, 森、P164 - P169、青山、P382、P386 - P387、P404、川北、P110 - P113、松村、P379、ロイル、P53、P59 - P60、P74 - P79。. 旺文社世界史事典 三訂版 - ジョン=オブ=ゴーントの用語解説 - 1340〜99イングランドの王子・ランカスター公イングランド王エドワード3世の子,ヘンリ4世の父。フランドルのヘント(Ghent)市で生まれたのでこの名がある。長兄エドワード黒太子にしたがって百年戦争に参加し,武勲をたてた。 ジョン・オブ・ゴーント(John of Gaunt, 1340年3月6日 - 1399年2月3日)は、イングランドの王族。イングランド王エドワード3世とフィリッパ・オブ・エノーの成人へ達した3番目の息子。ランカスター家の祖で、ランカスター朝創始者ヘンリー4世の父。エドワード黒太子、クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープは兄、ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリー、グロスター公トマス・オブ・ウッドストックは弟。イングランド宗教改革の先駆者ジョン・ウィクリフの保護者として知られる。, 1342年にリッチモンド伯に叙爵。1359年、初代ランカスター公ヘンリー・オブ・グロスモントの次女ブランシュと結婚し、ランカスター公となった。結婚によりダービー伯領・リンカーン伯領・レスター伯領も手に入れ富裕になった。ゴーントとは、出生地であるフランドル(現在のベルギー北部)の都市ヘントを指す[1][2]。, 1369年から再開した百年戦争において多くの戦いに参加、1371年にイングランド軍を率いていた長兄のエドワード黒太子が病気でフランスからイングランドへ帰国すると指揮を引き継いだが、さほどの戦果は挙げられず1374年に帰国した。国内では老いた父エドワード3世に代わって国政を取り仕切ったが兄と対立、1376年4月の善良議会で専制ぶりを非難され、課税撤回と宮廷腐敗をもたらした大臣達の議会弾劾、父の愛人アリス・ペラーズの追放などを議会で決められた。しかし、同年6月に議会の後ろ盾だった兄が病死すると巻き返しに出て、翌1377年の議会で決議を全て無効にして実権を取り戻した[1][3]。, 同年に父も亡くなり甥のリチャード2世が即位すると、補佐として置かれた評議会の筆頭として実権を振るったが、1381年に課税の失策によりワット・タイラーの乱を誘発させた。ランカスター公はスコットランドへ外交活動をしていたため不在だったが、ロンドンの邸宅・サヴォイ宮は反乱軍に破壊され、反乱鎮圧後の1383年にリチャード2世が親政を開始すると権力から遠ざけられた。リチャード2世に後継ぎが生まれなかったため、王位継承を目指してイングランドでもフランスのような男系継承のみを認めるサリカ法を採用することを主張したが入れられず、リチャード2世はランカスター公の兄であるクラレンス公ライオネル・オブ・アントワープの女系の孫であるマーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名した(ロジャーは1398年に死去)[1][4]。, 1386年からイベリア半島に遠征し、後妻の権利としてカスティーリャ王位を主張したが果たせず、王位要求を放棄する代わりに娘キャサリンとカスティーリャ王子エンリケ(後のエンリケ3世)を結婚、10万ポンドの金や年金受け取りで妥協して1389年に帰国し、留守中に生じたリチャード2世と訴追派貴族の対立および非情議会で生じた亀裂の修復に努め、貴族の国王追及を止める代わりに国王の専制も抑えることに尽力した。その甲斐あってリチャード2世からの信頼を獲得、1390年にアキテーヌ公位を譲られた(実効支配せず)。更に1397年、リチャード2世から4人の庶子を嫡子に格上げする計らいもあり(後述)、晩年はリチャード2世寄りの姿勢を取っていた。, しかし同年、リチャード2世はランカスター公の弟で訴追派貴族のメンバーでもあるグロスター公トマス・オブ・ウッドストックらを逮捕して殺し、ランカスター公の死の前年の1398年、彼の息子で同じく訴追派貴族の一員だったヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)を国外追放した。さらに1399年にランカスター公の死を見届けるとランカスター公領の没収を命じた[1][5]。, ボリングブルックは帰国して反乱を起こすとリチャード2世を捕らえて廃位し、ヘンリー4世として即位した。, 詩人チョーサーの『公爵夫人の書』(The Book of the Duchess)において「白の貴婦人」と賞賛されたブランシュ(1345年/1347年 - 1368年)との間に7人の子を儲けたが、成人したのは1男2女だった[6]。, ブランシュの死後、1371年に2度目の妃としてカスティーリャ王ペドロ1世の娘コンスタンス(1354年 - 1394年)を迎え、1男1女を儲けた[7]。, 1394年にコンスタンスを失うと、1396年に10年来の愛人キャサリン・スウィンフォード(1350年 - 1403年)を正式に3度目の夫人にした。彼女はランカスター公の母フィリッパが嫁ぐ際に随行してきた騎士の子孫で、愛人であった間に3男1女が生まれていた。正式に結婚した翌年の1397年に、4人の庶子は嫡出子になることが認められたが、その条件として王位継承権を剥奪された。さらに1407年にはヘンリー4世によっても王位継承から除外することを確認された。それにもかかわらず彼らはボーフォート家としてランカスター朝で繁栄し、子孫はヘンリー7世としてテューダー朝を創始することになった[8]。, ヘンリー4世、キャサリン・スウィンフォードとの間の長子ジョン、末子ジョウン、その姪に当たる同名の孫娘、さらにその姪に当たる曾孫マーガレットを通じて、ジョン・オブ・ゴーントはヘンリー4世以降の全てのイングランド君主とジェームズ2世[9]以降の全てのスコットランド君主の共通の先祖である。, 森、P155、青山、P375 - P376、川北、P101 - P103、P105 - P106、松村、P291。, 森、P160 - P164、P176、青山、P378 - P379、P401、川北、P106、松村、P291、ロイル、P33、P40 - P41。, 森、P164 - P169、青山、P382、P386 - P387、P404、川北、P110 - P113、松村、P379、ロイル、P53、P59 - P60、P74 - P79。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ジョン・オブ・ゴーント&oldid=79298005. ジョン・オブ・ゴーントとは?goo Wikipedia (ウィキペディア) 。出典:Wikipedia(ウィキペディア)フリー百科事典。 フランドル,ヘント[没]1399.2.3. ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントは甥である王リチャードの不正を知っていましたが、王を神の代理人だとして重んじていました。 しかし息子の国外追放に気落ちし、死期を悟った彼は、王を死の床に呼び、諫めようとします。 No reproduction or republication without written permission. 初代ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスター(” John of Lancaster, 1st Duke of Bedford”, 1389年6月20日生~1435年9月14日没)はイングランド王ヘンリ4世の第三王子で、兄王ヘンリ5世死後、フランス摂政として幼いヘンリ6世を支え、フランス征服戦争を指揮した。イングランド王ヘンリ5世とクラレンス公トマスは兄、グロスター公ハンフリーは弟。ジャンヌ・ダルクを異端審問裁判にかけて処刑させた。, ベッドフォード公ジョン(左)「ベッドフォード公の時禱書” Book of Hours (the ‘Bedford Hours’)”」(大英図書館収蔵, Add MS 18850)(パブリックドメイン画像), ジョン・オブ・ランカスターは1399年、父ヘンリ4世の戴冠式の際に騎士に叙された。1403年に勃発したノーサンバーランド伯の反乱(~1406)では、1405年、民衆反乱を扇動していたヨーク司教リチャード・スクロープら反乱勢力と、ウェストモランド伯ラルフ・ネヴィルとともに偽りの和平交渉を行って騙し討ち、続けて民衆反乱を鎮圧した(注1)。1414年、初代ベッドフォード公に叙爵される。1415年、ヘンリ5世のフランス遠征時にはイングランドで留守を預かり、1416年、アルフルール奪還のために出撃したフランス艦隊を撃滅している。, 1422年8月31日にイングランド王ヘンリ5世が、同10月21日にフランス王シャルル6世が相次いで亡くなるとトロワ条約に従ってヘンリ5世と王妃キャサリン・オブ・ヴァロワとの間に生まれた生後9か月の幼児がヘンリ6世としてイングランド王にしてフランス王に即位しイングランド=フランス二元王国が成立した。このときベッドフォード公はフランス摂政に就任(注2)しフランス征服戦争を指揮することとなった。, トロワ条約体制はイングランドとブルゴーニュ公国との「アングロ=ブルギニョン同盟」によって成立していたが、ヘンリ5世死後、ブルゴーニュ公フィリップ3世は低地地方(ネーデルラント)やアルザス・ロレーヌ地方など神聖ローマ帝国側への領土拡大方針へと転換しフランス戦線から距離を置くようになっていた。, ベッドフォード公は引き続き百年戦争を優位に進めるべくブルゴーニュ公国の助力が必要であったため、公との関係強化を目指し、1423年、ブルゴーニュ公フィリップ3世の妹アンヌを妻に迎えた。しかし、両国関係は様々な問題から安定せず、百年戦争後期の政局を複雑なものとした。, ロヒール・ファン・デル・ウェイデン作『ブルゴーニュ公フィリップ3世善良公の肖像画』(1450年頃), イングランドとブルゴーニュの同盟関係に亀裂をもたらしたのが、エノー=ホラント=ゼ―ラント伯位継承問題である(注3)。低地地方にあるエノー、ホラント、ゼ―ラントの三伯領はヴィッテルスバハ家が独占して継承していたが、十四世紀末、ブルゴーニュ公フィリップ2世が長女マルグリットを伯妃として嫁がせ、その娘ジャクリーヌ(ヤコバ)が女相続人となっていた。その後婚姻関係を深め、ブルゴーニュ家が継承するかに見えたが、1417年、前伯ウィレム6世の弟リエージュ司教ヨーハンの介入で内乱となり、1420年、ジャクリーヌはイングランドに亡命してしまう。1422年10月、ジャクリーヌはグロスター公ハンフリーと結婚し、1423年、グロスター公はエノー=ホラント=ゼ―ラント伯を名乗ったため、グロスター公とブルゴーニュ公が対立する事態になった。, 関係悪化を危惧するベッドフォード公は弟グロスター公の暴発を抑止しようとするが、グロスター公は兄の制止も聞かずフランドルに侵攻して、1424年12月エノー伯領を占領するものの、1425年3月、ブルゴーニュ軍の反撃で駆逐される。その後も対立は続き、グロスター公は1428年にようやく伯位請求を取りやめ、1433年、伯領はブルゴーニュ公フィリップ3世の支配下となる。この過程で両国関係の亀裂は大きなものとなっていった。, イングランド=フランス二元王国はフランス摂政としてベッドフォード公が就いてフランス征服戦争を指揮する一方で、イングランド護国卿に弟グロスター公ハンフリーが就いてヘンリ6世を補佐する体制となっていたが、イングランドではグロスター公ハンフリーと叔父のウィンチェスター司教ヘンリ・ボーフォートが対立して、一触即発の事態になったため、1426年、ベッドフォード公は一時帰国して両派の調停にあたった。ベッドフォード公によってレスター城で開かれた議会は武器の持ち込みが禁止され、両派は棍棒(バット)を隠し持っていたためバット議会” Parliament of Bats”と呼ばれる(注4)。, 彼は、征服したノルマンディー地方の占領行政に高い内政手腕を発揮した。ヘンリ5世時代の重税を改めて減税を実施するとともに、カーンに置かれていた財務府を首府ルーアンに移動させるなど統治機構を再編し、身分制議会を繰り返し開催して民意の反映に努めた。, 『ベッドフォード公の摂政統治は、積極的な身分制議会の活用によって特徴づけられ、これによってシャルル六世治世には、もはや消滅しかけていたノルマンディ身分制議会を復活させたのである。これはベッドフォード公が、イギリスにおける議会の政治上の意味と役割を理解していて、ノルマンディではこのイギリスの経験が適用可能と考え、その実際の適用において成功をみた、ということであろう。』(注5), また、住民鎮撫政策として、就任直後の1422年10月、ベッドフォード公は軍の規律の徹底を布告した。軍人が住民を捕えて身代金を要求したり、略奪や物資の強制徴収を禁止したりといった内容で、『ベッドフォード公による軍隊の規律維持についての基本的考え方は、兵士と一般住民が直接接触する面をできるだけせばめ、できるかぎり文官によって両者の間を仲介させる』(注6)というものであった。, またジョン・ファストルフなど行政手腕に長けた軍人を重用し、内政を重視して支配体制を確立した。, 国内政争の調停、占領行政機構の確立、外交交渉といった政治家としての面だけでなく、彼は軍人としての手腕も持ち合わせていた。, シャルル7世率いるアルマニャック派はパリ陥落後ベリー地方ブールジュに逃れて亡命政権を樹立すると、弱体な軍事力を補うためスコットランドに助力を求めて、1421年以降スコットランドの王族バカン伯ジョン・スチュアートを軍の総司令官である大元帥に任じ、スコットランド人部隊が主力となっていた。スコットランド軍を主力としたアルマニャック軍は1421年のボージェの戦いではベッドフォード公の兄クラレンス公トマスを敗死させている。, ヘンリ5世死後、「第二のアジャンクール」と言われるイングランド軍の大勝利となったのが1424年8月24日に行われたヴェルヌイユの戦いである。この戦いでベッドフォード公はイングランド軍を率いて高い統率力を見せた。大元帥ジョン・スチュアート率いるスコットランド軍とロンバルディア傭兵を主力としたフランス(アルマニャック派)軍約14000に対し、ベッドフォード公率いるイングランド軍約10000は森を背後にして、中央に装甲兵、両翼に弓兵を置き、アジャンクール同様弓兵で圧倒した。ただ、アジャンクールのように一方的な展開とはならず、乱戦の中でイングランド軍も少なからぬ損害を受けている。このときベッドフォード公自ら戦斧を振るって戦った。, 『ベッドフォード公の指揮の力は称賛せざるを得ない。追走した兵たちはすぐ目の前に身代金という大金を得る好機があると知っていたにもかかわらず、まだ余力を残していると思われるスコットランド軍相手の戦いに戻ったのだ。』(注7), この戦いでフランス大元帥であるバカン伯ジョン・スチュアートが戦死、主力スコットランド軍も壊滅し、アランソン公ジャン2世ら首脳陣がイングランド軍の捕虜となった(注8)。勢力バランスが均衡しつつあった英仏関係は、ベッドフォード公が高い統率力を発揮したこの戦いで、一気にイングランドへと傾いた。その後メーヌ伯領の征服も完了し、ベッドフォード公の支配下で百年戦争中イングランドの版図は最大となった。, ベッドフォード公には1428年時点で二つの選択肢があった。一つはアンジュー公領への侵攻であり、もう一つは要衝オルレアンの攻略である(注9)。, アンジュー地方はプランタジネット王家にとって父祖の地であり、ジョン王の失地以来その回復は大きな目標の一つである。また現アンジュー公家はシャルル7世政権最大の支持勢力であった。さらにアンジューを制することで現在の征服地である北フランスとフランス南西部のイングランド領アキテーヌ公領とをつなぐことができる。すでにメーヌ伯領を征服してアンジュー地方進出への橋頭堡は築いていた。, ベッドフォード公は当初アンジュー地方への侵攻を目指していたが、ソールズベリー伯やウォリック伯(注10)といった有力貴族の間ではオルレアン攻略の意見が大勢を占めていた。オルレアンを攻略することでシャルル7世の本拠地であるブールジュやシノン城まで一気に軍を進めることが可能となる。すでにヴェルヌイユの戦いで主力を失い退勢著しいシャルル7世政権に止めを刺し、フランス全土を治めるのも時間の問題となるだろう。また、ブルゴーニュ公国にも近いオルレアンならば、その協力を仰ぐことで同盟関係を再確認することも可能である。, 結局、ベッドフォード公は彼らの声に押されるかたちでオルレアン攻略を決した。これは当時の財政状況も深い関係があり、ノルマンディー地方の1427-28年の収入が12万フランに対し、支出は17万5千フランと大幅な赤字となっており(注11)、面で広げる征服戦争のような戦費の見通しが立ちにくい決断がし辛かった。, ベッドフォード公は後に苦々しく「成算もなく企てられた」とオルレアン攻略に反対であったことを回想しているが(注12)、始まってみると、彼は包囲の継続にこだわった。ジャンヌ・ダルクの登場を契機にオルレアン包囲は失敗に終わり、続くパテーの戦いでイングランド軍主力が壊滅し、ベッドフォード公は危機的状況に追い込まれることになる。, パテーの敗戦によるイングランド軍の壊滅によってシャルル7世はランスで戴冠式を挙行することが出来、フランス王としての正統性を確立して急速に勢力を拡大した。これに対しベッドフォード公は、ヘンリ・ボーフォートが対フス派十字軍用に徴収していた資金と部隊を流用して急ピッチで軍を再建した。1429年8月15日には自ら軍を率いてモンテピロワでシャルル7世率いるフランス王軍と睨み合っている。このときシャルル7世に一騎打ちを挑んだエピソードが残る。, 1429年の夏から秋にかけて、イングランド、フランスともにブルゴーニュ公との関係改善を目指して外交交渉を活発化させていた。8月末、フランス側はブルゴーニュ公にコンピエーニュ、サンリスなどオワーズ川流域の諸都市を割譲する条件で四カ月間の休戦条約を締結。また、ブルゴーニュ公はフランスに対し当事国による和平会議開催に前向きである旨伝えている。, 一方、ベッドフォード公は7月10日から15日までブルゴーニュ公をパリに迎えて歓待、ブルゴーニュ公に兵力2000名分の経費を提供することでブルゴーニュ軍がパリ防衛にあたること、およびブルゴーニュ公に対しフランス王国総司令官の称号を贈り、シャンパーニュ伯領とブリ伯領の割譲を約束して、秘密裏にフランスとの休戦条約終了後の参戦を取り決めた。対ブルゴーニュ外交戦争はベッドフォード公に軍配が上がった。, 1430年4月、ブルゴーニュ軍は和平会議実施の約束は無視しつつ、フランスに対しオワーズ川流域割譲の約束の履行を求めて軍を動かし、同5月、コンピエーニュでジャンヌ・ダルクを捕らえた。身代金と引き換えにジャンヌ・ダルクの身柄を獲得したベッドフォード公は異端審問裁判を開催させて彼女を処刑する。ジャンヌを異端とすることでシャルル7世の正統性を貶める目的であった。続く、1431年12月16日、ヘンリ6世の戴冠式を挙行してイングランド=フランス二元王国の権威の確立に努めたが、式次第に不手際も多く効果が上がらなかった。, 『彼は人間としてあらゆる資質に恵まれていた。しかし彼にとって重大なものは目的であり、手段はどうでもよかった。一旦計画が決まった際には、これに反対するいかなる障害物の存在も認めなかった。この故に彼は、父親ヘンリー四世がリチャード二世を殺害したように、ジャンヌ・ダルクを処刑したのである。』(注13), ジャンヌ・ダルク死後、シャルル7世政権ではリッシュモン大元帥派とラ・トレムイユ侍従長派の主導権争いで内紛が起こっていたが、イングランドでも対フランス戦争での財政負担が大きくなってノルマンディーで暴動が頻発、グロスター公が再びボーフォート枢機卿との抗争を激化させるなど体制が安定せず、ベッドフォード公はこの対応に忙殺された。, 対フランス戦争も一進一退の攻防が続き、1431年7月2日のブルネヴィルの戦いではイングランド=ブルゴーニュ連合軍がフランス軍を撃破してバール公ルネ・ダンジュー(後のアンジュー公ルネ)を捕らえ、1431年8月11日のベルジェの戦いではラ・イルとジャン・ポトン・ド・ザントライユ率いるフランス軍を撃破してザントライユを捕虜としたが、翌1432年2月、ジャン・ド・デュノワにシャルトルを奪還され、同月ノルマンディーでは一時ルーアンを暴徒に占拠された(注14)。またラニー包囲やソンム包囲なども断念せざるを得なくなり、征服戦争の限界が訪れつつあるように見えた。, 1430年にブルゴーニュ軍の参戦を受けることができたものの、その後のブルゴーニュとの関係は距離が開く一方であった。1431年のヘンリ6世の戴冠式にもブルゴーニュ公は欠席する一方、同12月13日、教皇の調停でフランスとブルゴーニュ公国は六年間の休戦を締結し(注15)、アングロ=ブルギニョン同盟の破綻は目前に迫っていた。決定的だったのは1432年11月14日(注16)のベッドフォード公妃アンヌ・ド・ブルゴーニュの死で、ブルゴーニュ公フィリップ3世の実妹であった彼女はアングロ=ブルギニョン同盟の紐帯であった。1433年、ベッドフォード公はブルゴーニュ公の有力家臣であるリュクサンブール家出身のジャケッタ・ド・リュクサンブールと再婚するが、フィリップ3世は事前の相談を受けておらず腹を立てたという(注17), 1433年、フランスではリッシュモン派とラ・トレムイユ派の政争が終結してラ・トレムイユ侍従長の失脚とリッシュモン大元帥の復帰が決まり、体制は安定に至った。一方イングランドでは再びグロスター公とボーフォート枢機卿の抗争が激化し、フランスでの戦線維持のための資金調達の必要もあり、1433年末、ベッドフォード公はイングランドへの帰国を余儀なくされた(注18)。, 1434年7月、ベッドフォード公はフランスへ帰国した直後から長年の過労からか病に倒れ、1435年9月14日、ルーアンで死去した。享年46歳。彼の死の一週間後の9月21日、イングランドを除く、フランス王、ブルゴーニュ公および百年戦争当事国の間で「アラスの和約」が締結され、イングランドは外交的孤立に陥り、強力な指導者・調停者を失って国内は政争に明け暮れ、百年戦争敗北への道を転げ落ちていくことになる。, ベッドフォード公は芸術の庇護者としても知られ、1410-30年頃に製作されヘンリ6世に献呈された装飾写本「ベッドフォード公の時禱書” Book of Hours (the ‘Bedford Hours’)”」(大英図書館収蔵, Add MS 18850)が名高い。, 「ベッドフォード公の時禱書” Book of Hours (the ‘Bedford Hours’)”」(大英図書館収蔵, Add MS 18850)(パブリックドメイン画像), ・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年) ・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年) ・城戸 毅著『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』(刀水書房,2010年) ・佐藤賢一著『英仏百年戦争』(集英社,2003年) ・佐藤弘幸 著『図説 オランダの歴史 (ふくろうの本/世界の歴史)』(河出書房新社,2012年) ・松村赳/富田虎男 編著『英米史辞典』(研究社,2000年) ・ジョセフ・カルメット著(田辺保訳)『ブルゴーニュ公国の大公たち』(国書刊行会,2000年,原著1949年) ・トレヴァー・ロイル著(陶山昇平訳)『薔薇戦争新史』(彩流社,2014年) ・フィリップ・コンタミーヌ著「百年戦争 (文庫クセジュ)」(白水社,2003年) ・フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年) ・マシュー・ベネットほか(浅野明監修、野下祥子訳)『戦闘技術の歴史2 中世編』(創元社,2009年) ・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年) ・レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』(白水社、1986年) ・John.A.Wagner “Encyclopedia of the Hundred Years War” (GREENWOOD PRESS, 2006), 注1)トレヴァー・ロイル著(陶山昇平訳)『薔薇戦争新史』(彩流社,2014年)102頁, 注2)当初は、ベッドフォード公はノルマンディー総督に就き、ブルゴーニュ公フィリップ3世がフランス摂政となる予定だったが、ブルゴーニュ公が辞退した。, 注3)エノー=ホラント=ゼ―ラント伯位継承問題は城戸 毅著『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』(刀水書房,2010年)256-262頁、佐藤弘幸 著『図説 オランダの歴史 (ふくろうの本/世界の歴史)』(河出書房新社,2012年)28-29頁を参照。, 注5)城戸 毅著『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』(刀水書房,2010年)159頁, 注6)城戸 毅著『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』(刀水書房,2010年)170頁, 注7)マシュー・ベネットほか(浅野明監修、野下祥子訳)『戦闘技術の歴史2 中世編』(創元社,2009年)228頁, 注8)ヴェルヌイユの戦いについてはマシュー・ベネットほか(浅野明監修、野下祥子訳)『戦闘技術の歴史2 中世編』(創元社,2009年)223-228頁、John.A.Wagner “Encyclopedia of the Hundred Years War” (GREENWOOD PRESS, 2006)pp.306-307参照, 注9)フィリップ・コンタミーヌ著「百年戦争 (文庫クセジュ)」(白水社,2003年)109頁/レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』(白水社、1986年)86頁によると、アンジュー地方征服後、ベッドフォード公はアンジュー公領を獲得する予定となっていた。, 注11)城戸 毅著『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』(刀水書房,2010年)152頁, 注12)レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』(白水社、1986年)86頁, 注13)レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』(白水社、1986年)87-88頁, 注14)1432年2月3日、リッカルヴィルという野武士が警備の隙をついて100人ほどの手勢でルーアン城を占拠し、ジャンヌ・ダルクが閉じ込められていたこともあるル・ブーヴルイユ塔を奪取したが、数日後に鎮圧された。(レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)265頁), 注15)フィリップ・コンタミーヌ著「百年戦争 (文庫クセジュ)」(白水社,2003年)119頁, 注16)アンヌ・ド・ブルゴーニュの命日は、英語版Anne of Burgundy – Wikipediaは11月13日としているが、John.A.Wagner “Encyclopedia of the Hundred Years War” (GREENWOOD PRESS, 2006)p12およびジョセフ・カルメット著(田辺保訳)『ブルゴーニュ公国の大公たち』(国書刊行会,2000年,原著1949年)225頁を参照して11月14日とした。なお、日本語版、フランス語版も11月14日となっている(ウェブぺージはすべて2019年12月21日閲覧)。, 注17)トレヴァー・ロイル著(陶山昇平訳)『薔薇戦争新史』(彩流社,2014年)171頁, 注18)トレヴァー・ロイル著(陶山昇平訳)『薔薇戦争新史』(彩流社,2014年)173頁, 「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。, 「Call of History ー歴史の呼び声ー」は歴史情報のポータルサイトを目指して、記事の更新を行っています。現状ではサイトを継続していくために皆様の支援が必要な状態となっています。よろしければ資金面や記事を更新する上での参考文献の支援をいただけると幸いです。.

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